文字を生かす江戸提灯職人ー瀧澤光雄ー

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瀧澤光雄(Mitsuo Takizawa)
瀧澤提灯店代表。豊島区伝統工芸保存会所属。
昭和15(1940)年8月13日生まれ、東京都豊島区出身。15歳から父親である親方に弟子入りし提灯作りを60年近く続ける。伝統的な製法で提灯を作り、3代続く瀧澤提灯店を今も守っている。瀧澤提灯店の代表を務める傍ら、消防団の本団の副団長を務めている。

現在は、完全分業制の提灯屋が多い中、一連の作業を成すことが出来る、都内でも数少ない工房である瀧澤提灯店。 今回は、70歳を超えてもなお提灯作りを続ける職人、瀧澤光雄さんにお話を伺いました。

厳しい父への弟子入り

戸田秀成(以下、戸田) 本日は宜しくお願いします。まず最初に、瀧澤さんが職人になったキッカケを教えてください。

瀧澤光雄(以下、瀧澤) 私は現在、瀧澤提灯店の3代目なんですが、本当は長男が後を継ぐはずだったんですよ。私の親方である親父はとても厳しい人でして、兄はその厳しさに耐えられなくて途中でやめてしまったんです。
そこで、親父から「お前がやれ!」と言われました。

戸田 いきなりですね。

瀧澤 実は、父は3度ほど徴兵されていて、僕と兄で10歳も歳が違うんです。兄がいて、歳も離れていますから幼少期から好きなことをやれば良いと言われていたんです。そこで、いきなり後を継げと言われて正直驚きましたね。15歳、中学生の時ですかね、学校から帰ってくると親戚が家に集まっていたんです。親戚一同に後を継ぐことを後押しされ、もはややらざるを得ない感じになってしまったんです。そこから私の職人としての道が始まりました。

戸田 もう後に引けない感じだったんですね。兄と一緒に、または後々独立して提灯屋になるということは考えていなかったんですか?

瀧澤 あまり考えたことなかったですね。元々、車の整備工になりたかったんですよ。機械いじりが昔から好きでしてね。自分で就きたい職業があったけど、まぁ止められてしまったんですよね。嫌だと言っていたけど、父の兄も提灯屋さんで一家代々提灯屋、そしてもう私しか跡継ぎがいない。親戚が頭を下げ始めてしまって、もう断るに断れなかったんですよ。

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戸田 なるほど。そして職人としての道が始まったんですね。

瀧澤 でも、そこから生活が変わったんです。親父が「今日から親でもなければ、子でもない」と言って、縁を切られてしまったんです。その日からもう「親父」や「お父さん」と言っても反応してくれなくて、「親方」と言わないと会話が出来ない状態になりました。本格的な弟子入りですよね。厳しいなと思いましたが、これが弟子入りすることかと思い、同時にこれが兄が途中で投げ出してしまった原因なのかなとおも思いました。

戸田 それは厳しいですね!でも、弟子入りするということに対するイメージと似ているかもしれません。いきなり親子でありながらお父さんと呼べないのは辛くなかったですか?

瀧澤 私、小学生の時に母を亡くしているんですよ。なので、もう弟子入りする時にはある程度気は強かったですね。母が亡くなってからは、私が朝ごはんを炊いて、姉弟を学校に送り出す。当時は薪ですよ? その後に学校に向かうので、毎日遅刻してました。遅刻のチャンピオンとか言われてましたね(笑)。最初は驚きましたが、だんだん慣れていきました。

100年以上続く瀧澤提灯店

戸田 続いて、ここ「瀧澤提灯店」について教えてください。

瀧澤 祖父が創業した提灯店を、後を継いだ親父の兄が亡くなったあと親父、そして私が引き継いだので、私で3代目になります。
創業した正確な年はわからないのですが、もう100年以上前だと思います。120年位かな? でも、もう私でここも終わりにしようと思っています。

戸田 え、4代目はいないんですか?

瀧澤 私には娘が二人いるんですよ。女性でも提灯屋は出来るんですが、両方とも大学進学を希望したということもあり、私の代で終わりにしようと決意しました。どうしても大学出てからだと遅いんですよ。提灯屋は意外と覚えることが多いのでね。

戸田 学校と平行して修行を進めるのは難しいんですか?

瀧澤 覚えることが多いというのも、日中は親方である親父と共に作業をし、夜は文字や家紋の描き方を覚えなきゃいけないので、時間がいくらあっても足りないくらいなんです。そいうこともあり、自分も本当は高校行きたかったんですが、それでは遅いと親父に言われて行かせて貰えなかったんです。
そして、文字に関してはマニュアルがあるわけではなく、親方が描く文字などを見て自分で生み出さなきゃいけないので大変なんです。 今はどの提灯屋さんもポスターカラーを使うことが多いと思うんですが、修行していた当時は墨をメインで使っていて、色や艶でちょうど良い濃さを出すんですが、これがまた難しい。

戸田 難しい?どういう点でですか?

瀧澤 ちょうど良い色をした墨は、和紙に描いても滲まないんです。少しでも薄かったりすると滲んでしまって、濃いと提灯を畳んだ時に割れてしまう。とても難しいんですよ。 分かるかなー。

戸田 想像しにくいですね…。

瀧澤 これは水で溶かしたものなんだけど、ものすごい滲んでいるんだよね。

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戸田 なるほど!墨の濃さで全然違うんですね。

墨磨り3年、一人前の文字が描けるまで15年

戸田 続いて具体的な修行内容についてなのですが、どんなことから始まったんですか?

瀧澤 親方に言われていたのは、「墨磨り3年」。 これはいつも言われていましたね。最初から文字を描けるわけでもないので、弟子入りしてから3年は墨磨りが主な作業でした。 そして親方に磨った墨を褒めてもらうまで、本当に3年かかりましたよ。 墨って腐るの知ってました?

戸田 墨って腐るんですか?

瀧澤 ニカワで出来ているからどうしても時間が経つと腐っちゃうんですよ。 そして墨磨り以外には型作りなんかもしていました。 他には弓型提灯の弓の部分を作ったり。

戸田 弓の部分まで提灯屋で作るんですか?

瀧澤 いや、弓を専門で作っている人はいるんですよ。でもこれ、そのまま触るとどうしてもバリがあって、ならしてないことがあるからトゲが刺さってしまうことがあるんです。親方はそれを好まないから全てペーパーで削り、工芸用の漆を塗り直すんです。その上に籐を巻く。持ち手だから滑らないようにする為なんです。そしてそこは千鳥加工してあって、こうすることによって更に滑らなくなるんですよね。

戸田 持つ人が持ちやすいように工夫しているんですね。

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瀧澤 どちらも提灯屋の仕事じゃないんですけど、提灯を使っててトゲが刺さるなんてことは作った職人の責任だ、というのが親方の考えだったので。

戸田 でも、使い手のことを考えてですよね。

自分で自分の字を作れ

戸田 文字に関しての修行はどのような感じだったんですか?

瀧澤 文字に関しては、毎晩勉強していました。毎日10時に店を閉めていたので、そこから12時までの2時間黙々と勉強の日々でした。新聞紙に文字の練習をするんですよ。そして練習の時は墨は使ってはいけない。筆に微かに残っている墨を水で溶かしてやっていました。そして、次の日の朝食の前に親方に夜練習した文字を見せるのが日課みたいな感じになっていました。

戸田 文字の練習というと、お手本やマニュアルがあるようなイメージなのですが。

瀧澤 文字のマニュアルなんてないんですよ。親方に簡単な書き出しと止めは教えて貰うんです。で、一応それを見本にするんですが、親方が描いた時と全く同じものを描いてしまうのはいけない。「自分で自分の字を作れ」と毎日言われていました。そして自分の字を作るまでに時間がかかるんですよ。だから、他の作業で覚えることも多くて、どうしても時間がかかってしまう。たぶん他の提灯屋さんと字を比較すると全然違うのがわかると思いますよ。文字に関しては一人前になるには15年かかると親方は言っていたんですよ。でも、13年くらい経った時に親方は病気で倒れてしまって、そこからは完全独学でやりました。

戸田 そうだったんですね。親方の言葉で印象に残っているものってありますか?

瀧澤 いろんなこと言われましたが一番は、「為せば成る」ですかね。
提灯作りにはマニュアルはないんですよ。 技術が途絶えてしまうと復活させることが出来ない。 今は完全分業制なので、火袋を作る専門の人はいるんですが、昔の提灯を復元するなんてことを出来る人は少ない。これは、提灯作りのスタートポイントである型がないからなんですよ。この前もとある骨董市かなにかで買った提灯の形が好きだから欲しいという方がいたんですが、この形を作っている人ってもういないんですよね。

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瀧澤 なので、内径を図ったりして作りましたよ。 完全分業制ということもあり、ここみたいに型作りから紙貼り、そして文字入れまで出来る人ってそんなにいないと思いますよ。

戸田 完全に復元したんですね。これも分業ではなく一連の作業を一人でやっている瀧澤さんならではですね。

道具は大切に

戸田 提灯作りに欠かせない道具ってありますか?

瀧澤 筆と和紙と墨くらいかな。文字入れするのが江戸提灯ですからね。

戸田 なるほど。筆なんかはこだわりがあったりするんですか?

瀧澤 筆は言ってしまえば消耗品なのですが、コシのない筆は使わないです。水分を吸い過ぎるのは提灯作りには向いてなくて、吸った墨を絞ってから文字を描かないと、骨組みにそって墨が流れちゃうんですよ。それと先がない筆を使います。

戸田 一般的に習字などで使うのと違いますね。

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戸田 こちらの大きい道具はなんですか?

瀧澤 墨を溶く為の容器の「すり鉢」です。 これ、下の部分がすり鉢で、上の部分がセイロなんですよ。セイロは墨が飛び散らないようにですね。 この中に書道などで使う墨とお湯を入れて、墨を溶かします。書道みたいに直接硯でやらないので、墨をちゃんと最後まで使えるんですよ。こんなに小さくなるまで。 (写真) このすり鉢が無くなるともう商売できなくなりますよ。 普通のすり鉢だと筋が多いので、墨が荒くなっちゃう。これみたいに筋がほとんどないやつのほうが良いんですよね。

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瀧澤 この容器は3代使っているんですが、祖父の自作なんですよ。だから、祖父も筋のないすり鉢を見つけて作ったんじゃないかと思ってます。 硯じゃなくて、これで作るから墨も一定の濃さを保てるし、一回に大量の墨を作れるんですよ。 そして多分他の提灯屋はこれやってないんじゃないかな。みんなポスターカラー使ってると思う。 でも、ポスターカラーは明かりを通さないんですよね。

戸田 代々受け継がれている道具ですね。一回にどれだけの量を溶かすことが出来るんですか?

瀧澤 正確な量はわからないんですが、提灯を一つ作るには十分な量。でも昔、山梨県にある見延山久遠寺の修行場である七面山の頂上にある1m80cmの提灯を作ったんですが、その時は何度溶いても足りなかったです。

戸田 1m80cm?かなり大きい提灯ですね。

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瀧澤 そう。大きさはもちろんだけど、文字入れがけっこう難しかったんですよ。丸い提灯に文字を描くには、 円周が小さいところにいくに連れて文字も形を変えて、遠くから見ても文字が均等に見えるようにしなきゃいけない。これが計算しながら描かなきゃいけなくて難しいんですよ。 この提灯は、紙貼りで3ヶ月、文字入れで3ヶ月なので半年くらいかかりましたよ。他の仕事と平行してやっていたのもあって時間かかりましたね。

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瀧澤 これ、親方も作っていて、終戦8年後くらいに作っていて僕が新しいのを作ったんです。作ると決まってから、親方が作った提灯を工房まで運んでもらったんですが、上下の枠を再利用して紙貼りと文字入れだけかと思ったら、枠が木で出来ていたのでシロアリに食われていて、周りの漆が塗られた部分しか残っていなかったんですよ。だからここも一から作り直し。 前の工房で作ったんですけど、運ぶのが大変。男4人がかりで神輿のように担いで登山しなきゃいけなかったんです。

戸田 凄いですね。機会があったら見に行ってみたいです。

瀧澤 登山しなきゃだよ。頑張ってね(笑)。

基本に則った仕事を大事に

戸田 瀧澤さんのこだわりはなんですか?

瀧澤 自分が思った通りに作りたい。そして妥協したくない。 なので、毎回お客さんとちゃんと話をしてから作ることを心がけています。 お客さんの要望で、提灯として見た目が悪かったりする場合はちゃんと伝えて、毎回最高の一品を作るようにこころがけています。

戸田 良いですね。最後に、これからの提灯についてはどう思っていますか?

瀧澤 提灯という文化を残すか否かではなく、基本に則った仕事をみんなにして欲しいですね。 最近だと、パソコンで作った文字を提灯に描く事業者も増えてきていて、私はそれは寂しいなと感じます。職人一人一人違った字を描いているからこそ味があるのに、それがパソコンで出来てしまうなんてもったいない。パソコンで作った下書きに筆ペンで上書きしてるなんて本当にもったいない。今の世の中IT化が進み技術は確かに進んでいます。でも、その中で提灯作りは基本に則ったやり方でやって欲しいなと思っています。

(終)

瀧澤作の消防団員への贈り物

瀧澤作の消防団員への贈り物

〜終わりに〜

強いこだわりを持つ瀧澤さんには、まさに職人魂を感じることが出来ました。 そして提灯職人でありながら弟子の時に木彫もやっていたり、実は神輿作りもしたことがあるという経験も持っており、話のネタが多くとても楽しくインタビューをすることが出来るのも親方から学んだものなのではないかと思いました。提灯は見る機会が減ったものの、お祭りなどの祭事では見ることが出来るので、見かけた時にはその形や色だけではなく、描かれている文字にも注目してみたいですね。